緑風好日 宮岡 孝之(専修大学法科学院大学教授、弁護士)
出会い
はじめに
専修大学を通じて、人と出会う。それが自らの成長の糧となる。大学とは、人生の師、友との出会いの場である。
1. 川甚
柴又帝釈天を過ぎ、江戸川の土手にむかうと右手から「川甚」の文字が飛び込んでくる。この店は、夏目漱石の小説「彼岸過迄」で主人公が食事をしたという川魚料理の老舗である。5月と12月、「近藤仁一先生を偲ぶ会」という歓迎看板が掲げられる。この会は、専修大学が司法試験合格者を安定的に輩出する礎を創られた近藤先生から教えを受けた者が、師を偲び語らう集いである。
川甚を懇親会の場所としたのは、近藤先生が、最後の教え子に「君が受かったら、川甚でご馳走する。」と約束されたことに由来する。この教え子が合格するのは、近藤先生が亡くなった半年後であり、先生と川甚に来ることはなかった。
今の自分がどのような人々に支えられてきたのかと振り返ると、運命を決定づける幾多の出会いがある。優秀でもない自分が、司法試験に合格し、その結果専修大学法科大学院教授となれたのは、多くの方々に支えられてきたからである。特に、専修大学の司法試験受験指導にあっては近藤先生の存在は偉大であり、先生に出会わなければ司法試験合格はなかった。そこで、今回は専修大学における出会いとして、近藤先生をご紹介する。
2. プロフィール
近藤先生が、ご自分のことを書かれた「川の流れのように」によれば、
- 昭和11年9月14日、栃木県足利郡で生まれる。
- 昭和34年3月、早稲田大学法学部卒業。
- 昭和36年8月、司法試験断念。
- 昭和37年3月、会社勤務。
- 昭和38年2月、司法試験受験再開。この年最終合格。
- 昭和39年4月から41年3月まで、司法修習生。
- 昭和41年4月から45年夏まで、検察官。
- 昭和45年秋、弁護士登録。
その後、近藤教室開講、辰巳法律研究所専任講師に。
3. 専修大学低迷期
昭和26年から44年までの専修大学司法試験合格者は14名である。この間、多くて3名、3年間合格者がいないこともあった。時々の合格者が情熱的に指導することで細々と合格者が出ていたというのが実情である。
ところが、昭和45年から51年まで合格者0が続く。この結果を単純に評価すれば学年トップでも司法試験には合格できないということになる。そのためか、合格という指標を失った専修大学正法会司法試験研究室は、私が入室を許された昭和50年12月には暗く、陰鬱な雰囲気であった。しかし、この状況を打開しなければならないという思いは、学生の間にも、また正法会を担当する学生生活課の職員の中にも芽生えつつあった。その一つの表れとして、正法会で択一試験を行うことになった。その方法は職員の方が試験問題を選び、印刷も行うというものであった。この時、学生生活課の職員であった本学の三島英雄専務理事や専修大学玉名高校の石澤孝芳常任理事には格段のご支援を頂いた。
昭和52年に2名、54年に3名と合格者が出るようになった。けれども、正法会に在室して合格した者は、僅かに1名であり、室員が合格までの勉強方法や成長過程を体験的に知る機会は少なかった。その後、合格者の指導もあり、卒業1年目で合格する者も正法会から出るようになった。ただ、それらの合格者は個々の優れた才能と努力で合格したという側面が強かったように思う。
専修大学出身合格者の出現はよい刺激となり、室員は択一ゼミを組み、第一関門である択一試験には合格するようになった。ところが、天王山である論文試験の壁は高く、容易に突破することは出来なかった。
4. 近藤先生の登場
再び、正法会の室員が司法試験合格の困難さを強く意識するようになった昭和59年12月、神田1号館5階にあった正法会を篠庶務課長が訪れた。用件は、辰巳法律研究所が開催していた答案練習会に神田校舎を貸していることもあり、今度辰巳法律研究所の方に専修大学の司法試験指導をお願いしたい。ついては、提案者である長谷川総務部長と話をしてもらいたいという。そこで、私は佐賀元明氏(検察官・現司法研修所教官)とともに、長谷川部長とお会いして、辰巳法律研究所で受験指導をしている近藤先生にあって欲しいとお願いした。この時、よもや司法試験受験指導の第一人者である近藤先生が引きうけてくれるとは考えていなかった。
ところが、この話はトントン拍子にすすみ昭和60年1月に顔合わせをすることになった。我々が近藤先生にお願いしたのは論文指導であった。それは、既に自主ゼミで卒業生の主立った者は択一に合格するが、最後の難関である論文試験の到達点をなかなか見いだせなかったからである。その頃の室員は大多数が辰巳の日曜答案練習会を受講しており、この講座に合わせて毎週2通答案を作成し、講評を受けることになった。近藤先生が受講生の実力をどの程度と評価したかはお聞きしていないが、その年に合格者がでると信じていたと思われる。
昭和60年の択一試験にも主力メンバーは合格し、9月の論文発表を待つことになった。
5. 最悪の結果
昭和60年9月。法務省の赤煉瓦で造られたアーチ状の暗い廊下を抜けると、中庭がある。その中庭に隣の建物と2階をつなぐ廊下があり、その廊下を利用して合格者の番号が張り出される。外で待つ受験生は期待と、いやそれよりも遙かに大きな不安を胸に、その時をじりじりと待つ。掲示板を見た瞬間、そこには合格と不合格という天と地の差の世界が繰り広げられる。合格して、万歳を叫ぶ者等々。しかし、その何倍かの者が、喪失感に苛まれながらその場を後にする。その年、近藤ゼミ受講者は誰一人、合格しなかった。
我々は、再び指導を仰ぐべくゼミ室に集まる。その時の思いはあれだけ指導して貰ったのに申し訳ないというものであった。近藤先生は我々に「君たちは司法試験を合格しないものと思っている。その負け犬根性が嫌いだ。どこまで、続く泥沼ぞと思っている者が合格するはずはない。」という話しをされた。我々は、司法試験合格とは、先の見えない遙かに遠い遠いものと感じていた。その思いが最後の踏ん張りどころで、力が出し切れない原因か、これから精神的にタフになり萎縮せず試験を乗り越えられるのか。そのような思いを断ち切るために、もう一度先生の指導を受ける決意をした。
その年の論文成績通知書では、最後の合格者から数十人目となっていた。
6. 我、合格せず
昭和60年10月、486名が最終合格して受験生という立場から去った。「今の実力で上位にいる。このまま行けば来年は合格できる。」と思った。背水の陣を敷くため、両親にも妻にも来年合格しなければ、司法試験を辞めると宣言した。
5月末、択一合格。いつものように7月の論文試験にむかうのであるが、どこか心静かになれない。論文試験の前夜、近所のステレオの音が気になって、「うるさい。」と怒鳴ったことを覚えている。
昭和61年9月。いつもの暗い廊下を抜けた先の掲示板に私の受験番号はなかった。この時、考えたことはいままで文句も言わずに支えてくれた妻にどう詫びるかであった。その言葉も見つからないまま、帰宅。ただただ泣くしかなかった。
約束どおり、司法試験を断念した。父が四国で開業している司法書士を継ぐべく方向転換。予備校の講座に申し込み。講座が始まるまでに運転免許をとることにした。長年合格を夢みて勉学に励んだ正法会から荷物を持ち帰る際、論文に合格して、口述試験準備中だった佐賀氏が手伝ってくれた。申し訳ない気持ちで一杯だった。そして、専修大学の司法試験合格者増加のためのお手伝いしようと思ったが、それができず申し訳ないとの詫び状を近藤先生に出した。
7. 捲土重来を期せ
論文発表と同時に、翌年に向けてスタートが切られる。私は、のんびりと運転免許取得に勤しんでいる。そんな11月の半ば、自宅の急な階段を上がった廊下で電話が鳴る。その主は、近藤先生であった。私は、司法試験を諦めたと話しているのだが、全く聞いている様子はなく、「一度会おう。」と。指定された場所は辰巳法律研究所が日曜答練を行った会場近くの駿河台であった。そのまま、山の上ホテルに。「山の上」は天麩羅の名店である。今食べれば衣の軽やかさと、素材の味わいを十分に楽しむことができるのだが、その時の天麩羅は全く記憶にない。そこでの話しは、
「司法試験を断念したことは、手紙に書いたとおりですが。」
「そんなものは読んでいない。あと2年司法試験をやってみないか。」
「自分は、親にも妻にも司法試験は断念したと伝えています。」
「私は、今まで受験指導をしてきて、2年で合格すると確信した者の合格率は、75%だ。私の経験に賭けてみないか。」
「でも、既に決めたことですし。」
「宮岡さんが、司法試験に賭けて、司法書士の合格が遅れたとしても、それは経済的負担が増えるということだろう。もし、2年して駄目だったら、私がその経済的損失分として100万円支払う。」
そこまで、先生が期待してくれていることが嬉しかった。もう一度やってみようと思い、
「では、親に内緒で司法試験をやることにします。」
「もう一度司法試験をやると、ご両親を説得できない者が、どうして採点者である司法試験委員を納得させる答案を書くことができるのだ。やるのであれば、すぐに田舎に帰ってご両親の了解を貰ってきなさい。」
先生の目にも涙があったが、途中から、私の頬を涙が濡らせ続けた。この夜、妻にもう一度司法試験をやらせて欲しいと伝えた時、ぽつりと「あんなに苦しむのは、もう嫌。」と言ったが、それ以上、反対はしなかった。
11月に、両親の了解を得て、12月から再開。普通の受験生と比べて2ヶ月遅れのスタートである。それまで教養試験科目として選択していた政治学の成績が安定しないことから、会計学に変更した。分からないことは妻に聞けばよいのだから、短期間に一定の水準まで到達出来た。この知識がその後の税金訴訟で役立つのだから人生何が幸いするのか本当に分からない。そこからは、一心不乱に勉強した。近藤先生には辰巳法律研究所の講座受講では最大のご配慮を頂いた。また、廊下で後輩から質問されることを避けるため、禁煙した。択一試験が終了してから論文までの2ヶ月間は先生から毎週、一対一の質問攻め。終わるとヘトヘトになっていたが、不思議と論文試験に対する緊張感はなかった。
8. 合格
7月に試験が終わってから、特にすることもなく時を過ごすことになる。一つだけ違っていたのは妻が出産を控えていたことである。8月に切迫早産しそうになり、入院。毎日病院に行くので、看護婦さんからは「宮岡さんはいいわね、何時もご主人がいて」。
9月の論文発表。掲示板で自分の番号を見つける。番号がないのは一瞬で分かるのに、ある時は何度見ても容易に信じることが出来ない。その場で、先生と固い握手を交わす。
先生が、来年を目指す受験生に送った葉書には、次のように記されていた。
雨の発表会場で
M君は、昨年論文試験に失敗した。S大学の研究室に行ってみると、彼はそこにはいなかった。司法試験を断念し、別の道を進むということだった。あれは11月も半ばを過ぎたころであったろうか。彼を呼び出して2人で酒を飲んだ。「あと2年やってみてくれ。1年だけという追いつめられた気持ちではなく、もっとのびのびと。必ず合格できる。それを信じてほしい。」
あれから1年たった。雨の降る発表会場の中で彼は声をかけてくれた。
「ありました」「よかったな」。そう言って手をにぎり合うと、もうそれ以上は、お互い何も言えなかった。
昭和62年9月30日深夜
辰巳専任講師 近藤 仁一
9. 病を得て
平成2年1月に、辰巳法律研究所の事務局長から電話があった。重要な話があります、是非会いたいとのこと。私としては司法研修所での最後の試験の直前であり、電話で話が出来ないのかと問うが否との回答。
事務局長が話し始めたのは、近藤先生が平成2年1月に脳溢血で倒れられ、何時回復するかも分からない。そのため、近藤先生が今まで専修大学で担当してきた新入生向けの講座が開講できない。そこで、今年から1年生を対象として行う入門講座に専修大学生を辰巳の責任で受け入れたいという申し出であった。この話がやがて専修大学と辰巳との司法試験講座提携の出発点になる。
私の記憶では、平成5年初めに望月清司学長が市ヶ谷の私学会館で資格試験の在り方について懇談会を開催された。その席に私も急遽参加することになり、他の私立大学と専修大学の受験生とのレベルを比較したデーターを提供した。この資料に興味を示された望月学長から会いたいという話しがあり、面談。司法試験に対する指導体制を確立するために、辰巳と提携して大学で司法試験入門講座を平成7年4月から開講。学長秘書として、積極的に関与されたのが現在の法科大学院事務部部長田中實氏である。
その後の専修大学の受験生の増加や、択一合格者数等については、専修文芸2号37頁をご覧頂きたい。
10. 近藤塾
先生は、体調が回復するとともに、大学等で講義やゼミを担当することを希望された。私もそのことが先生の復帰の一助になればと考えていた。しかし、何時再発するか、また、講座を担当し連続開講、そして合格者を輩出しなければならいという重圧は、先生の体調面には望ましくないということになり、先生に断念して頂いた。
その後、大学等の公的な場で受験指導をされることはなかった。しかし、自宅に受験生を集めて無償で指導を継続されていた。その中に、川甚でご馳走すると約束された者がいた。
平成3年の夏、先生が専修大学の合格者達と話しがしたいということで、早速先生のご自宅に。我々が、訪問すると酒席となるのだが、医者から1日3合を限度とすると申し渡されていたため、よく何度目かの3合目の酌を求められた。ただ、余り飲まれないように、少しだけお酌をしていた。そのような中でも、特定の受験生の名前が挙がり、合格しないのは何故かという話しになったものである。
12月には、毎年新しい合格者を交えて、会合が開かれ、その合格者のゼミでの失敗談などで盛り上がっていた。
11. 闘病記 -託された原稿-
先生は、自ら「闘病記」を書かれた。
この時、先生は専修大学への思いを文書にして闘病記に掲載することを希望されたが、個人的な色彩が強いという意見があり断念されたという。そこで、先生はご自分の専修大学に対する思いを込めた原稿を私に託された。タイトルは「-私の夢の実現へ-専修大学の栄光」。内容を若干紹介すれば、長谷川部長から受験指導を依頼された経緯や、その挫折、昭和61年の佐賀氏の合格、昭和62年の私を含む4名の合格、その後の正法会に対する厳しい指導など専修大学に対する熱く強い思いが書かれている。この原稿の最後は「専大は白鳥だ!」という見出しである。
一歩、一歩専修大学は前進する。ふと気付くと、専修大学は、こんなすばらしい大学だったのかと実感する。私が小学4年生の時であったろうか、教科書で「みにくいあひるの子」というアンデルセン童話を読んだ。美しい白鳥も、あひるの世界では、不格好なみにくいあひるとしか目にうつらない。しかし、努力して白鳥の世界に入れば、なんとすばらしい白鳥かと、人々に賞賛される。今、私は思う、専修大学は、自分が白鳥と気がつき、それなりに努力すれば、大空に飛び立ち、白鳥の湖を泳ぎまわれるのだ。
では、それにはどうしたらよいのか。私は正法会の室員に訴えたい。
第一に、専修大学正法会の会員は白鳥なのだ。白鳥は自分が白鳥だということを自覚して努力するべきものだ。誰でも自分は、「みにくいあひるの子」(自分はだめだ)と思い込んで努力しない。しかし、ある日突然努力した結果、白鳥(合格)であることに気がつく。そこで大空をはばたく。
第二に、正法会会員は、努力した結果が合格するのである。勝手に自分は白鳥だと思い込んではいけない。苦労を重ね、白鳥の湖にたどりついたとき白鳥となるのである。すなわち、会員は、最も効率の良い勉強の方法を早く修得してほしいのである。勉強のペースが軌道に乗ればあとは時間の問題である。
私は信じる。専修大学の偉大さを、それを今後実現することを。美しい白鳥が悠々と湖の中を泳ぎまわるのを夢みたいのだ、各大学でトップをあらそえばそれでいいのだ。それを正法会の各会員の力強い足取りに期待したい。
先生は、当初の合格する自信がなくてとどまっていた者と、先生の指導を受けさえすれば合格できると誤解している者がいることを鋭く見抜き、正法会室員に警鐘を鳴らしたのである。
12. 追悼集 -近藤仁一先生と専修大学-
平成12年5月11日午後8時、先生は心筋梗塞でこの世を去られた。この知らせを私は信じられなかった。この年の択一試験は5月14日であり、先生の死を聞いて動揺する受験生がいることを心配して、葬儀は内輪で行うと決められた。しかし、先生が亡くなられたという情報は受験界を駆けめぐった。冒頭に記した受験生から葬儀に参列してよいかという問い合わせがあった。
この受験生とのエピソードを紹介すると、ある年の論文発表の夜、どうしても会いたいとの電話。彼は、受験を断念しようと思うと相談した。受験を辞めると決断した者は、辞ようかという相談などしない。そこで、私は「来年合格するために何をどう変えるべきか分かっていないのなら、辞めた方がいい。」と。彼は「君は合格する。頑張れ。」と声を掛けられると思っていただろうから、ショックであったことは想像に難くない。後日談だが、彼はその時に飲んだワインの味など覚えていないという。その後、彼は択一に合格しない年もあり、どうなるかと考えていた。そんな中での先生の死。先生に最後まで指導して頂いた彼が合格するのは、この年しかないと思いながら、彼が先生とのお別れをしたいという希望に内輪の葬儀であると伝えた。
先生の死という現実を前に、何をすべきか考えた。その時、気になっていたのが先生から預かっていた原稿である。先生の「人間教育を根幹とする受験指導」を受けて合格した者達が行うべきことに思い巡らせた。先生の専修大学への情熱を明らかにするために、先生から預かった原稿を巻頭に掲げ、先生の教えを受けて専修大学で合格した者が「追悼集 近藤仁一先生と専修大学」を作成して、奥様に贈呈することにした。
特に、内容は指定せず、皆が先生に対する思いを書いた。その中で共通するのが、先生は個々の受験生と正面から向きあっていたことである。合格するためにもっと素直にものを考えろとか、裏付けのない勝手な思いこみをしていると感じた者に対して、正法会でもっとも自堕落な人間であると皆の前で指摘したとか、それぞれが目を覚まし、正しい方向に導く術を知って、指導されていた事を物語る思い出で充たされていた。
その中で、杉山博亮氏が先生が辰巳で行われた択一模試の解説の終わりに、これから本番を迎える受験生に話した内容を紹介している。
「この会場にいる人の中には、最終的に司法試験に合格する人もいれば、合格しない人もいるでしょう。数から言えば、むしろ司法試験に合格できずに途中で諦めていく人の方が多いはずです。しかし、たとえ皆さんが司法試験を諦めることになったとしても、是非とも、司法試験を目指したことを後悔しないでいただきたい。むしろその後の人生において、自分は司法試験を目指していたんだと、誇りをもって生きていただきたいと思います。結果はどうであれ、人間は目標に向かって全力を尽くしたときは、決して後悔しない。自分は力の限りやったんだという、清々しい気持ちは残るものです。ですから、みなさんは、是非ともそういう勉強をして、試験に臨んで頂きたい。」
13. 墓参 -エピソード-
平成17年12月11日、この日は先生の月命日である。今回は、刑事法関係を検察官という立場で専修大学法科大学院客員教授として教えている森川誠一郎先生が参加することになった。森川先生は早稲田大学出身で、受験生時代近藤先生の教えを受けたということを知り、ご一緒することになった。先生と森川先生とは共通する点が多い。校歌を覚えたいと言った点まで、そっくりである。森川先生は専修大学を見ていて先生が好きになったのが分かるといわれている。この日、偶然にも先生の奥様と墓前でお会いして、森川先生をご紹介。一同で、久しぶりに引き合わせてくれた先生のお力に献杯。
平成18年5月14日
今年の墓参は、母の日であり、今までの司法試験択一試験日でもある(択一試験に落ちた時、半ばやけ気味に「母の日に親不孝する択一試験」といっていた)。また、19日から法科大学院第一期生の新司法試験が始まる週でもあった。そこで、先生の墓前で「今日受験する諸君と、新司法試験受験生が先生に守られて全力が尽くせることを祈念して、献杯」という声とともに、先生の教え子が後輩の健闘を祈った。
追悼文を書いた大部分の者が、専修大学法科大学院教授、客員教授となり実務等を教えるばかりでなく、学生に対するバックアップ講座等を担当している。また、その後の合格者も含めて多くの弁護士が法科大学院で学生から勉学上の相談を受けるため、午後6時から8時まで無償で待機している。何故無償かと問われれば、彼らは自分達が専修大学から受けた恩を次の世代に伝えるためだと応える。そうでなければ、そのような行為が続くはずはない。
専修大学が続く限り、近藤先生が専修大学に注がれ、我々が与えられた恵みは次の世代に引き継がれると確信している。
以上
追記
この度、近藤先生の名を専修大学に残すため、専修大学創立130周年募金に「近藤仁一先生を偲ぶ会」名で有志が寄付をした。