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雑記帳

よもやま話 =その1=

年末年始

あまり知られていませんが、学校法人北上学園の理事長と専修大学陸上部の部長を拝命しています。

専修大学北上高校は男女サッカー部ともに全国大会に出場、

男子は12月29日に浦和駒場で、女子は1回戦を勝てば30日に兵庫県三木市で2回戦、

そして男子が2回戦に進めば31日に再度浦和で試合。

 

新年は、1月2日大手町から芦ノ湖へ、3日芦ノ湖から大手町まで箱根駅伝応援。

忙しい年末年始になりそうです。

 

【余話】

私の出身校である松山北高校男子サッカー部も全国に大会に出場。

専北対松山北戦になったら、どうしょうと思っていましたが、実現せず。

 

弁護士 宮 岡 孝 之

大番所  弁護士 宮岡孝之

大番所  弁護士 宮岡孝之

中之門を通ると直ぐに大番所があります。

この番所は江戸城に入る最後の番所です。

城門のすぐ近くにあることから、出入りする者の検問や門の開閉が任務であったと言われています。

大番所の右側には15段の石段があります。

これは、中之門を破って侵入した敵に対して側面から鉄砲を放つために設けられたものです。

大番所から次の中雀門跡まで、現在はアスファルトで舗装されていますが、

江戸時代は階段状になっており、階段の高さも幅もそれぞれ異なり、侵入を困難にしたということです。

現在は清水門から城内に入る階段の形状と同じということなります。

 

弁護士 宮岡 孝之

中之門  弁護士 宮岡孝之

中之門  弁護士 宮岡孝之

百人番所に正対して、中之門の石垣があります。

慶長12年(1607)に藤堂高虎によって建築され明暦の大火で焼失、

その後再建されますが、元禄16年(1703)の地震で崩壊。

現在の中之門は宝永元年(1704)に建てられています。

石垣は伊豆石と瀬戸石が使われており、大きいものは35トンあるとのことです。

中之門の特徴は桝形門ではなく、渡櫓門で敵の侵入を防いだということです。

また、地面には門を支えた礎石が残っています。

弁護士 宮岡 孝之

百人番所  弁護士 宮岡孝之

百人番所  弁護士 宮岡孝之

大手三の門を抜けたところに長さ50メートルの全国でも最大規模の番所、百人番所があります。

与力20名、同心100名がこの番所に詰めていたため、この大きさになったということです。

甲賀組(青山)、伊賀組(大久保)、根来組(根来寺の僧兵・市ヶ谷)、二十五騎組(黒田藩家臣・新宿)の警固番が交代で詰めていました。

江戸城が落城した時は、半蔵門から甲州街道を通って、甲斐の甲府城に逃げる計画があり、その道々に警固番を配置したようです。

八王子千人町も千人の同心が居住したことから付けられた地名です。

弁護士 宮岡 孝之

大手三之門  弁護士 宮岡孝之

大手三之門  弁護士 宮岡孝之

 

大手三之門に進みます。

今は三の丸尚蔵館から地続きです。

かつては下乗御門が架かっており、橋から内堀を望むと、二の丸巽奥三重櫓、東多聞櫓等の防御の櫓が連なっていたようです。

この橋では、御三家以外の大名はここで駕籠を降りなければならず、「下馬」の高札が立てられていました。

このため下乗御門と呼ばれたとのことです。

 

下乗御門を渡ると、大手三之門があり、その右手に大手三之門を警護する与力、同心が詰めていた同心番所があります。

同心とは、奉行、所司代、大番頭などの配下に属し、与力の下で庶務・警備の仕事をした役人のことです。

 

この建物は現存する数少ない江戸時代に建築されたものです。

弁護士 宮岡 孝之

 

写真(上)下乗橋番所付近から内堀北奥を見る(HP:e国宝より)

写真(下)大手三之門(宮岡撮影)

 

松山城 弁護士 宮岡孝之

松山城 弁護士 宮岡孝之

故郷松山に帰省する道のりは、東京から新幹線で岡山、岡山から快速で宇野、宇野から連絡船で高松、高松から特急で松山へ。

宇高連絡船の甲板でうどんを食べるといよいよ四国という思いがします。

そして、何よりも幼少期から見慣れた松山城を見ると「帰ってきた」と強く感じます。

 

7月12日未明の松山城土砂崩れのニュースはショッキングでした。

それまでも松山城周辺では小規模な土砂崩れは起きていました。

例えば、萬翠荘近くに復元された愚陀佛庵が2010年7月に倒壊するなど。

しかし、天守近くからこれほど大規模に崩壊したのは初めてです。

昨日(7月15日)、現場近くに行くと、樹木が根元から流れている様子を見ることが出来ました。

松山市のシンボルである松山城の一日も早い復旧を願っています。

最後に亡くなられた方に、合掌。

 

弁護士 宮岡 孝之

尚蔵館 弁護士 宮岡孝之

尚蔵館 弁護士 宮岡孝之

東御苑で、もっとも新しい建物は三の丸尚蔵館です。

尚蔵館は、皇室ゆかりの品々を展示しています。

旧館の時代は無償でしたが、新館になって有償でかつ予約制がとられています(入場者数が少ない時に予約なしでも入れました)。

東京新聞2024615日朝刊に尚蔵館の国宝「唐獅子図屏風」が展示されているとの記事がありました。

宮内庁の所蔵品は文化財保護法の対象外で国宝等にはならないと記憶していましたが、20217月に国宝指定されたとのことです。

今後、追加工事が完成すればカフェも併設されるとか、楽しみが増えます。

 

弁護士 宮岡 孝之

ちょっと寄り道  弁護士 宮岡孝之

ちょっと寄り道  弁護士 宮岡孝之

江戸城は藤堂高虎の縄張りと書きました。

高虎は宇和島城(現存12天守)、大洲城、今治城を築城します。

その意味では、私の出身の愛媛県と深い関係があります。

また、高虎は松山城を築城した加藤喜明と唐島海戦の一番乗りをめぐって対立しており、仲が悪かったとされています。

 

ところで、会津藩主蒲生家が改易されて松山藩主になる時に、

高虎が秀忠に嘉明を会津藩主に推挙したと言われています。

嘉明は会津藩で白川街道の整備等を行いますが、寛永81631)年に死亡します。

 

第2代藩主明成は江戸城普請、会津城の改修等を行ったため、

藩財政を圧迫し厳しい年貢取立の結果、農民が土地を捨てるなどの騒動を起こします。

その結果、明成は寛永201643)年に幕府に会津藩を返上しました。

幕府は明成の嫡子に岩見慶永藩を与え大名として残します。

 

その後に会津藩主となったのが、家光の兄弟である保科正之です。

保科正之が会津藩主にならなければ、その後の会津藩の歴史は変わっていたのではと思います。

 

弁護士 宮岡 孝之

江戸始図 弁護士 宮岡孝之

江戸始図 弁護士 宮岡孝之

前ブログ「江戸城内へ。」で記載をした江戸始図です。

 

添付の「江戸始図」は、松江市立松江歴史館HPより)

弁護士 宮岡 孝之

江戸城内へ。   弁護士 宮岡孝之

江戸城内へ。   弁護士 宮岡孝之

手荷物検査を終えて、高麗門から城内へ。

ここでの見どころは、渡櫓門の向かいにある石狭間です。

江戸城は、藤堂高虎が縄張りを担当しました。

この石狭間も藤堂の指示により作られました。

石狭間の特徴は外部から目立たず、敵が接近すると火縄銃で攻撃するものです。

藤堂は築城に当たり実戦にも対応できる城を作ったと言われています。

藤堂の築城当時の江戸城は、江戸始図で明らかになりました。

大名家として羽柴家の記載があることから、1607年頃の作成と考えられています。

そして、天守閣の場所は、現在の富士見多聞 の近くで、大天守と小天守が連立し、

大手門からは桝形を連続させたものだったようです。

 

 

 

 

弁護士 宮岡 孝之

大手門  弁護士 宮岡孝之

大手門  弁護士 宮岡孝之

大手門は、大名や役人が江戸城に登城する時の正門です。

大名と50歳以上で特に許された役人以外は、門外の下馬札の建っているところで乗り物を降りて、徒歩で入場したということです。

大手門内に入城できる者の数には制限があり、入場できない人は外で待つことになります。

待っている間に、下馬した人たちが例えば次の大老は誰かとか、今の大老はという話しをします。

広辞苑によると、「下馬先で主人を待っている供の者などがしあう評判」を下馬評と説明しています。

 

弁護士 宮 岡 孝 

桔梗門  弁護士 宮岡孝之

桔梗門  弁護士 宮岡孝之

江戸城は、関東管領上杉定正の重臣太田道灌が1457年(康正3年)に築きます。

本丸、二の丸、三の丸の三郭からなっていたといわれています。

 

徳川家康が江戸城に入城した1590年(天正18年)ころの江戸城は、荒れ果てており、石垣はなく芝土手で建物も板葺きだったようです。

 

桔梗門は、三の丸の入り口で旗本や商人達が通行した通用口的役割を持っていました。

名前の由来については、徳川家康入府の際、太田道灌の名残を残す桔梗門の瓦があったからともいわれています。

太田道灌の家紋は、丸に桔梗ですから道灌が建てた門が、家康入府の時に残っていたのでしょうか。

 

なお、現在の桔梗門は1614年(慶長19年)に建てられたもので、「慶長江戸図」にも描かれています。

弁護士 宮岡 孝之

坂下門  弁護士 宮岡孝之

坂下門  弁護士 宮岡孝之

二重橋を過ぎて、北に向かうと西の丸の坂の下にあったことから、坂下門と呼ばれている門が見えます。

この門は明治に高麗門を取り払い渡櫓門の向きを90度変えて、正面に向けています。

 

井伊大老の死後、安藤信正が老中に就任します。

安藤は公武合体を主張。

長井雅楽(開国主義者)の航海遠略策に賛同しました(開明的な人で寺社奉行時代に死刑廃止論を主張)。

 

1862(文久2)年1月15日午前8時頃、公武合体に反対した水戸藩士6名が登城のために藩邸から坂下門に向かう行列を襲撃します。

安藤側に死者は出ませんでしたが、安藤は背中に刀傷を受けた(敵に背中を見せて逃げたと取られたようです)ことで、老中を罷免され、蟄居謹慎を命じられます。

 

安藤邸と坂下門との距離は、100m。

こんな短距離も護衛できない程、治安は悪化していました。

 

弁護士 宮岡 孝之

 

初日の出  弁護士 宮岡孝之

初日の出  弁護士 宮岡孝之

半蔵門の先で、皇居ランナーと新年の挨拶。

初日の出に「良い年になりますように、元気に走れますように。」と手を合わせる。

毎年の恒例行事。

 

 

正月余話。

専修大学が箱根駅伝を走らないため、3日の松山北校同窓会に参加。

松山空港から父母の墓で新年の挨拶。その後、会場へ。

年の経過を感じさせる友と歓談。

 

翌日、松山空港へ。搭乗予定便、欠航。

「昨日出る時は、運航との事でしたが。」、「夜、欠航が決まりました。」。

「次の空席は」、「7日に1席だけ空いています。」。

 

急遽、松山駅へ。

みどりの窓口と一つの券売機が長蛇の列。

720分発岡山行きまで、あと10分。

最低の乗車券のみ購入してと思い、空いている券売機に。

東京まで自由席新幹線の表示あり。

使えるカートがなんとオレンジカードの表示。

現金で21220円支払い、「しおかぜ」自由席で空席をゲット。

岡山から新大阪行きの「さくら」でも自由席で座れる。

幸運はここまで。

新大阪からは立ち席。

 

弁護士 宮岡孝之

二重橋  弁護士 宮岡孝之

二重橋  弁護士 宮岡孝之

皇居前広場から、皇居正門が見えます。

ここから見える橋に二重橋があります。

では、どうして二重橋というか知っていますか。

正門石橋と正門鉄橋があり、この橋が二重に重なって見えるからではありません。

奥の正門鉄橋が二重橋です。

橋桁が二段に組まれており、橋の上に橋があったからです。

橋の上に橋を作る必要があったのは、濠が深くて上の橋桁を支える下の橋が必要だったからということです。

二重橋の右手にある伏見櫓は、三代将軍家光が江戸城修築の時に京都伏見から移されたと伝えられています。

 

弁護士 宮 岡 孝 之

 

保科正之  弁護士 宮岡孝之

保科正之  弁護士 宮岡孝之

 

桜田門をとおって、大名小路に。

桜田門を入ってすぐの一角に新添江戸之図(1657年頃作成)に「保科肥後」とあり、

ここに保科正之の家敷があったことを示しています。

保科正之は、三代将軍家光の異母兄弟です。

 

秀忠は正妻のお江に気兼ねして生涯側室を持たなかったといわれています。

秩序維持のために側室を持つためには正室の許可が必要であり、

格式を合わせるために養子縁組をするなどの手続が必要だったようです。

 

この手続きをしない間に静との間に子をもうけた為、

このことをお江には秘密にして保科家に養子に出しました。

 

保科正之は四代将軍家綱な後見人として活躍します。

保科正之が明暦の大火で焼失した江戸城の再建に反対したとか、

会津藩主となり徳川第一主義をとったといわれています。

 

                               弁護士 宮岡 孝之

 

 (※添付は、国際日本文化研究センター 所蔵地図データベース「新添江戸之圖」より)

 

 

桜田門の石垣 弁護士 宮岡孝之

桜田門の石垣 弁護士 宮岡孝之

 

桜田門の石垣は、黒い伊豆石と白い瀬戸石の組み合わせで出来ています。

石組みの美しさでは、この石垣が一番だと思います。

 

また、江戸城は土の城と書きましたが、この土を利用して防御するために濠を作ります。

足がぬれると滑って上ることが出来ません。

 

濠の淵が水に侵食されるのを防ぐため「腰巻石垣」が、

土手の上部には、防御のために構築物を作るために「鉢巻石垣」が作られています。

 

武蔵野台が終わったところから総石垣が始まります。

ここはその切り替わり場所ということになります。

 

弁護士 宮岡 孝之

 

 

桜田門 弁護士 宮岡孝之

桜田門 弁護士 宮岡孝之

いよいよ桜田門(正式には外桜田門)です。

 

私は早朝の皇居ランニングで年に300回以上通過します。

この門は、浅草見附からはじまる36見附の中で最大の規模です。

見附は四谷の食違門を除いて枡型となっています。

上空から見ると枡の形に見えることからそのように呼ばれています。

正面の高麗門で入口を狭めて、この高麗門を突破した敵兵を側面の渡櫓門から攻撃して殲滅をはかる強固なつくりとなっています。

 

渡櫓門は、基本的には高麗門に対して右側にあります。

どうしてか分かりますか。

敵兵として鉄砲で攻撃することを考えて下さい。

渡櫓門が左側にあれば高麗門の扉に身を隠すことができますが、

右側にあると体をほぼ出さなければ攻撃することはできませんから、敵に身を曝すことになります。

平川門など、櫓門が左側ということもあります。

弁護士 宮 岡 孝 之

相馬隼人 弁護士 宮岡孝之

専修大学の創立者に、彦根藩士の相馬永胤がいます。

祖父である相馬隼人は井伊直弼の死の報を受け、行動を起こします。

大老の首が若年寄遠藤但馬守の邸内にあることを知り、彦根藩の警備の者の首であるとして、引き渡しを求め、請け書を作成して首を持ち帰ります。

藩医がこれを胴に縫い付けたということです。

彦根藩は井伊直弼は怪我をしたと幕府に届けます。

この書面に家老の岡本半介と相馬隼人が署名しています。

相馬永胤は、3月3日には必ず世田谷の豪徳寺の大老の墓に参ったということです。

 

                                          弁護士 宮岡 孝之

桜田門外の変   弁護士 宮岡孝之

安政7年(1860年)3月3日未明から吹雪となり積雪。

諸大名江戸城総登城の日です。

 

井伊直弼は、上屋敷から桜田門に向かいます。

彦根藩の60名あまりの警護の者は、雨合羽に、刀には柄袋を付けて駕籠を守っていました。

 

関鉄之介をリーダーとする水戸藩士17名と薩摩藩脱藩浪士有村次左衛門の総勢18名は、

早朝愛宕山の愛宕神社に集結し、午前8時頃桜田門外に到着。

 

午前9時、駕籠を襲撃し、井伊直弼はその場で絶命。

 

では、どうして積雪の中、18名が待ち伏せしていることに彦根藩士は気付かなかったのでしょうか。

総登城の大名を見物する人々に混じって道の両側で待機していたためということです。

 

                                       弁護士 宮岡 孝之

 

日米修好通商条約の締結 弁護士 宮岡孝之

井伊直弼は大老に就任した当時、条約締結に積極的ではありませんでした。

ハリスは、井伊にイギリス・フランスが清国と戦い勝利したアロー号事件を伝えて、日本が標的になる前にアメリカと条約を結ぶべきだと迫ります。

井伊は日本側全権大使に「万策尽きた場合には調印してよい。」との内諾を与えます。

その結果、安政5年日米修好通商条約が締結されます。

この内容は、治外法権と関税自主権が認められない不平等条約であり、この改正が明治維新後の近代化の原動力になったとも言われています。

朝廷は、勅許なく条約を結んだことに激怒し、水戸藩に幕政改革を命じる戊後の密勅を下します。

これに勢いづいた攘夷派を一掃するため、井伊は安政の大獄を断行。

井伊は水戸藩主らを処罰して、密勅の返納を命じました。

この処分に不満を持った水戸藩士の過激派が脱藩して大老暗殺を企てます。

 

                                         弁護士 宮岡 孝之

井伊家上屋敷跡  弁護士 宮岡孝之

井伊家上屋敷跡  弁護士 宮岡孝之

国会議事堂前の庭園は、かつて加藤清正の藩邸があり、後に井伊家の上屋敷となります。

この上屋敷から外桜田門に向かう間に、井伊直弼は水戸藩士らに襲撃されます。

ここから暫くは桜田門外の変について書こうと思います。

 

 井伊直弼は、彦根藩11代藩主井伊直中の14男です。

本来であれば部屋住みで一生を終わるところでしたが、兄たちの死によって1850年に13代藩主となります。

 

1854年3月、幕府はペリーと日米和親条約を結びます。

その後、幕府はハリスと交渉して、日米修好通商条約案を作成し、勅使を得るために時の老中が上洛します。

孝明天皇は、諸大名と議論を尽くして、再び言上せよとして差し戻します。

 

その時、13代将軍徳川家定が井伊直弼に大老を命じます。

 

                                       弁護士 宮岡 孝之

江戸城ウォーク  弁護士 宮岡孝之

江戸城ウォーク  弁護士 宮岡孝之

江戸城は、武蔵野台地の東端に作られています。

半蔵門から見るとそのことが良く分かります。

 

そして、「土の城」と言われています。

武蔵野台地は富士山、浅間山などから噴出した土が堆積した関東ローム層から出来ています。

関東ローム層は土の粒子が細かくしっかりした地盤で城の支持基盤に適しています。

 

一方、水分を含むと滑りやすいことから堀の法面として利用しています。

 

※淵は、飲料水等に利用するため自然の流れを堰き止めたものです。

 千鳥ヶ淵は、今の東郷公園辺りから流れ出ていた局沢川を乾門あたりで堰き止めたものです。

 

                                 弁護士 宮岡 孝之

月間200キロ  弁護士 宮岡孝之

月間200キロ  弁護士 宮岡孝之

月間200キロ

 

早朝、自宅から九段下、千鳥ヶ淵、そして皇居1周がランニングコースです。

今年に入って月間200キロを達成しています。

 

日々見る自然の様子などを今回から紹介しようと思います。

 

九段坂公園から千鳥ヶ淵越しに東京タワーが見えています。

ただ、現在建築中のビルが完成すれば東京タワー見られなくなりそうです。

 

ところで、「淵」と「堀」の違い知っていますか。

                          弁護士 宮岡孝之

縁あって、鶴岡へ

縁あって、鶴岡へ

 

縁あって、山形県鶴岡市に。

 

鶴岡といえば、専修学校の創立者駒井重格氏が戊辰戦争終結後に謹慎した場所と聞いていました。

そこで、専修大学大学史資料室の瀬戸口さんから謹慎していた場所を聞いて現地に。

 

到着当日、庄内空港から宿泊先まで向かったタクシーの運転手さんに「大山って分かりますか。」と聞くと、大山に住んでいるとのこと。

そこで、53日に案内をして貰うことに。 

 

鶴岡市大山2丁目の指定された場所には、石田屋という店舗があり、運転手さんが近所の店に布袋屋金右衛門邸はどこかと質問。年配の女性が石田屋さんに電話をして、布袋屋さんを知っているかと質問したが、詳細は分からないとのこと。

 

すると、この女性、家に石田屋さんの歴史を綴った書籍があるとのことで、店から持参。

「大山の石田屋」という本には、石田屋は明治5年開業と記されていました。

 

そんなやりとりをしていると運転手さんの知り合いが通りかかり、布袋屋を探していると伝えると、石田屋の隣の家は以前小布袋屋と呼ばれており、遊郭であったとのこと。

この事実を確認するということで前の美容院に。

美容院で髭をあたって貰っていた年配の男性に聞くと、石田屋さんの隣の家は、布袋屋さんの分家で小布袋屋といっていたということでした。

 

人の輪が繋がる不思議な時間でした。

駒井重格氏も謹慎中とはいえこんな暖かい人情のある大山で過ごしていたのかと感じることのできる貴重な体験でした。

 

その後、庄内空港に。別れ際、運転手さんが「大山の歴史を調べていると元高校の先生がいるので、何か分かったら連絡します。」とのこと。

 

新たな歴史が分かったら、今度は私から瀬戸口さんに伝えます。

 

展勝地の桜

展勝地の桜

学校法人北上学園では、46日高校、専門学校の入学式、翌7日は幼稚園の入園式。

例年は、蕾の展勝地の桜が満開。

2月の雪景色の対岸の眺めです。

桜

幸手権現堂桜堤の桜と菜の花。

桜吹雪の中、屋台で昼酒。

「花吹雪 一片浮かべ 杯挙げる」

卒業式

卒業式

322日、満開の桜。武道館で専修大学卒業式。

48年前の45日、満開の桜の下、武道館で専修大学入学式。

迎えの桜から、送りの桜に。

雪景色

雪景色

15年位前から出張の時、ランニングシューズを持参しています。

例えば、雪の札幌ではJR札幌駅から大通り公園までの地下道を走りました。

現在、北上に月1回か2回出向いていますが、流石にこの雪ではランニングを断念。

雪景色を楽しんでいます。

雑記帳再開

雑記帳再開

3日は、朝日に染まる富士を芦ノ湖越しに見て、往路スタートの選手を応援。

6日は、出張の機中から、富士を眼下に。

千鳥ヶ淵

 4月5日、千鳥ヶ淵緑道で夜桜見物。

 そんな朝の会話です。

 皇居の公園で久しぶりにIさんと会う。

 Iさん「どうしたの東京マラソン、サブ3.5かと思って見ていたら。」

 宮岡「脚が痛くなって初めて4時間を超えてしまいました。でも、久しぶりですね。」

 Iさん「膝に水が溜まって、2ヶ月休んでいました。」

 

 無理は禁物なようです。お互い。

 

弁護士 宮岡 孝之

誕生日

誕生日

今月は、誕生月でゼミ生からこんな御祝いを貰いました。

反対尋問中の顔とは大分違うというコメントもありましたが。

 

5月22日発表の全日本マンソンランキングでは、

つくばマラソンの3時間41分47秒で60歳の部3268人中282位。

 

ご参考までに。

 

弁護士 宮岡 孝之