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2026年09月

ちょっと寄り道-平川門- 弁護士 宮岡孝之

ちょっと寄り道-平川門- 弁護士 宮岡孝之

通常、高麗門は橋に正対している。

ところが、平川門は橋の延長上に空き地があり、右手に高麗門がある。

高麗門を入って渡櫓門は右手にあると以前書いた。

その理由は、渡櫓が右にあると攻撃の際、物陰に身を隠すことはできず、敵に身を曝すことになるからと説明した。

ところが、平川門の渡櫓は左手にある。その意味でも通常の作りと違う。

高麗門を入って、右手を見ると石狭間が。

これは大手門にあったものと同じ。

平川門は、御三卿(田安、清水、一ツ橋)の登城口であり、大奥の出入り口でもあった。

 

3代将軍家光の乳母春日局が門限に遅れた。

この時の門番小栗又一郎は、これを入れず春日局は一晩城外で過ごしたとのこと。

職務に忠実であったとの理由で、幕府は500石に加増。

 

この子孫が小栗上野介。

 

 

弁護士 宮 岡 孝 之

よもやま話ー子規の下宿がへー 弁護士 宮岡孝之

よもやま話ー子規の下宿がへー 弁護士 宮岡孝之

「筆まかせ」には、「明治16年出京して日本橋区に住し、1箇月許りにて赤坂区に転じ」とある。

赤坂に引っ越したのは、明治16年7月に須田学舎に入学したことも理由であろう。

子規は須田学舎に寄宿していたとされる。

須田学舎は、赤坂区丹後町99番にあったとのこと。

そこで、明治40年1月作成の赤坂区の地図から丹後町99番を探し、現在の地形と重ね確認できた場所が写真の赤坂4丁目4-13「丹後フラット」というビルである。

 

「伝記正岡子規」に次のような記述がある。

「久松邸の書生小屋で自炊生活を始め、三人部屋であったことから先に入居している先輩に何かにつけていじめられた。また、今までしたことのない炊事買い物を命令されたことも嫌であったが、安心して勉強できないという精神的苦痛が大きかったので、そこを1カ月余りで飛び出した。」とある。

 

この時から子規の“下宿がへ”は6年間に15回に及ぶことになる。

 

                                      弁護士 宮 岡 孝 之